報告1:「紅い瞳が見つめるもの」  気付くと、周りには誰もいなかった。分かりきったことだ。僕の周りには人なんていやしない。僕は、もうずっと昔に誓ったはずだ。決して、他人の心に触れようなどとは思わないと。そうすれば、楽に生きられる。もう、他人のことを考えて傷つくのはやめにしたはずだった。  いつの頃からか僕はその誓いを守るために、どんなに辛くても微笑むことにした。微笑んでいれば、他人は僕をいい人だと思うし、そんな誤解は僕を楽にさせてくれた。作られた微笑み―。僕は、いつもそんな笑みを浮かべて他人と接した。でも、でも、もしかしたら僕は微笑みながらも、声にならない声で叫んでいたのかもしれない。 「誰か、本当の僕を見てよ!!」と。  でもそんな叫びは、もみ消せばいい。僕は、その叫びと引き替えに人生を得たのだから。  もちろん、他人のことを気にしないようになる前には、僕は悩むことも多かった。袋小路に閉じ込められた弱い人間が考えるような単純な逃げ道、すなわち、自らを消し去ることも幾度か考えた。けど、実行に移せなかった。僕は、弱い人間なんだ。永遠に逃げる切ることすらも、怖くて出来ない。  しかし、他人の事を気にしないようになってから、僕の人生は変わった。適当に他人の話しを聞き流し、相槌をうつだけで人生が楽になった。僕は今、その結果にまあまあ満足している・・・のか?よく分からないな。まあ、どうでもいいことだ。興味無い。 *  僕は目を閉じる。そして、眠ろうと努力する。  この数時間、僕はずっと同じ事を繰り返している。しかし、眠る事が出来ない。原因は分からないが、目を閉じると身体が睡眠を拒否してしまうのだ。  最近は毎日こんな感じだった。毎日寝付くまでに五時間以上かかってしまう。朝日を見てからようやく眠りにつき、昼前には目がさめる。僕の心が蝕まれていくのが、はっきりと分かる。いや、蝕まれ過ぎた結果、眠れなくなっているのかも知れない。 「くそっ!眠れないっ!!」僕は狂ったかの様な声を上げ、掛け布団を放り投げた。  妙に冴える目で時計を見ると、赤い文字盤が午前三時過ぎを示していた。僕は頭を掻きむしりながらゆっくりとベッドから降り、机の上のスタンドをつけた。青白い光がぼんやりと机の周辺を照らす。  僕はコンポの電源を入れ、ヘッドホンを耳に当てた。ドーナツ盤をプレーヤーにのせ、静かに針を下ろす。  暫しの針音の後、ベン・E・キングの声が僕の心を満たし始める。    『When the nigjt has come ....』  僕はベッドの上でうずくまると、部屋を見渡した。いつもと変わり無い、僕だけの世界。僕にとって一番居心地の良い世界。しかし、今だけは違っていた。部屋にある全てのものが、僕を嘲笑っているかの様に思える。  僕は、ぼんやりと机の上のスタンドを眺めた。その冷酷なまでにも青白い光を見ていると、僕の心に色々な黒い物が浮かんできた。  多分、最近寝つきが良くないのも、この黒い物達のせいだろう。今まで、僕に気付かれない様に密やかに蓄積されてきた、様々な思いが一気に吹き出しつつあるのだ。  頭の中で様々な人々が話し掛ける。 「お前なんか嫌いだ」「なんで、なんで私に近付いてきたの」「あんたは偽善者だ。涼しい顔をして平然と人を破壊しつくす」「お願い。私を見ないでください」「君って奴は、なんて嫌な奴なんだ」「そう、あなたはいつも私の側にいてくれるって、約束してくれた。なのに・・・」「ああ、お前には人の心が理解出来ないんだ」「中津さんは、悪い人じゃないですよね?」「いや、君ほど悪い奴はいないよ」「そうだ、あんたは嘘つきだ」「君は、その汚らしいほどの作られた微笑みで、皆を騙しているんだ」「え、中津さんは嘘をついているんですか」「そうだ、大嘘つきだ」「もちろん、表面的には他人を大事に思っている様に見せ掛けているが、君は人を利用することしか考えていない」「じゃあ、皆を騙していたの?」「ああ、そうなんだよ。これは事実だ」 「お前なんて消えてしまえ。嘘つきめ」「私への微笑みは全部嘘だったんだ。嘘つき!」「私を好きだって言った事も全部嘘だったんですか。嘘つきだったんだ・・・」「じゃあ、あの時約束した、大事な大事な約束も全部嘘だったんだね。嘘つきっ!」  今まで出会った人々の声が僕の頭の中で木霊する。僕は頭を抱え耳を両手で塞ぎながら、身体を小さく丸めた。 「やめてくれええっ!!べ、別に僕は君たちを騙した訳じゃない!ただ、ただ・・・ごめん、本当にごめん!ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん お願いだ誰か僕を殺してくれっ!!!!」  僕は絶叫すると、激しく頭を掻きむしった。耳の上を暖かい物が流れ、シーツに滴り落ちる。それはゆっくりと綺麗な模様を作った。その暗赤色の幾何学模様を見るうちに、さらに僕の精神は錯乱して行った。 「怖い。怖いよ・・・誰か僕を助けて!誰か僕の側にいてよ!」僕はそこまで言うと、耐え切れなくなり、机の引き出しを開けて茶色のプラスティックの瓶を取り出した。  僕は瓶のふたを開けると、中からカプセルを取り出し口に放り投げた。その途端、僕は強烈な嘔吐感を感じ、カプセルを全て吐き出してしまった。  床に濡れたカプセルが飛び散る。僕はそれを見て、身体を大きく痙攣させた。 「ちっくしょう!まだ、僕はこんな物に救いを求めようとしているのか!!畜生!畜生!」僕の両目から大粒の涙が溢れる。  プロザック。床に散らばる薬は、そんな味気ない名前のドラッグだった。これは麻薬ではないから、常用性や中毒はないはずだった。しかし、これを飲むと心の靄が晴れる為、いつの間にか僕はこんなちっぽけなものに全人格を委ねていた。  僕は涙を拭いカプセルを拾うと、瓶ごと屑篭に投げ入れた。暫くの間、全身の力が抜け、木偶人形の様に床にへたり込み続けた。  時計の音と、ヘッドホンから微かにもれるスクラッチノイズが部屋を満たす。  僕の脳裏には色々な事が浮かんでいた。喧嘩同然で飛び出してきた実家のこと。そして、必要以上に僕を愛した母と必要以上に無視した父。二人は今どうしているのだろう。あと、大学での友人のこと。僕は彼らの前でいつも微笑んでいたが、本当の僕はそんなに明るい奴じゃない。彼らはその事に気付いているのだろうか? 「あ、痛てて」少しずつ心の平静を取り戻すと、僕は頭の引っ掻き傷を思いだした。手を傷に触れてみるが、血は付いてこない。どうやら、止まったようだ。しかし、まだ完全には止まっていない様なので、僕は急いで消毒薬の瓶を探した。  それにしても、今日はいったいどうしたんだろう?何故、ここまで神経が高ぶり、おかしくなっているのだろうか。薬の副作用か?いや、そんなはずはない、と思う。多分、疲れているからだろう。それに、ここ数日間、全く他人と会っていないからな。だから、心の平衡が少し崩れたんだと思う。いや、思う事にする。  僕は消毒薬の瓶を探し出すと、ティッシュに浸し頭の傷を拭いた。微かにしみる。  このまま、家にいては眠りにつく事は出来そうにもない。そう悟った僕は、近所のコンビニへ行く事にした。もしかしたら、環境が変わればこの煮詰まった感覚も小さくなるかも知れない。  僕は頭の消毒を終えると、服を着替えアーミーコートを羽織り、コンビニへと向かった。 * 「本当に誰もいないな」僕は、いつもなら人で溢れかえる駅前の大通りを、とぼとぼと歩き続けていた。腕に掛けられたコンビニの袋を、何気なく振り回す。  もう、太陽が活動を始める時刻らしい。ぼんやりと東の空が白んでいる。その明かりに照らされた街は、さらに不可思議に見えた。  僕は微かな明かりに自分の手をかざし、指の隙間から溢れる光を見つめた。その幻惑的な光が僕の心を溶かしていく。  そして、僕の口から洩れる白い息が、遥か上空に吸い込まれて行く。  何故、さっきはあんなにも取り乱してしまったのか、今ではもう定かではない。僕はたまに、どうしようもなく狂ってみたくなる事がある。原因は分からない。ただ、もしかしたら狂う事によって、人の愛情を得ようともがいているのかも知れないな。 「ふう」僕はため息をつくと、コンビニの袋からノンカロリーの缶コーヒーを取り出した。  プシュ  プルタブを開けると、充填された窒素ガスが吹き出した。振り回していた為か、そのガスの量は多く、少し中身が溢れてしまった。  僕は急いで缶に口をつけると、ほのかに甘いその液体を、一気に胃に流し込んだ。身体の隅々まで水分が行き渡る気がする。  かすかに鳥の声が聞こえる。もう、東の空には太陽が登り始めている。その明かりに照らされ、街は徐々に衣をはぎ姿を表す。  もう十二月に入ったとはいえ、太陽がのぼり始めると凍り切った街がゆっくりと溶け出し気温が上がる。僕は、アーミーコートの下が若干汗ばんでいる様な気がした。  僕は、光が満たされつつある光景を見続けた。何かを見い出そうとしながら、街角を凝視する。その時ふいに、僕は冷や汗が背中を滴るのに気付いた。先ほどから、何か嫌な空気が僕を包んでいるのだ。冬特有の土の様な香り以外の何かが鼻に付く。  僕は背中に異常なまでの汗をかき、唾を何度も飲み込んだ。何と言うか、とてつもなく恐ろしいものが迫っている様に感じられる。僕はそいつが放つ威圧感を全身で感じ取り、全身の毛が逆立つのを感じた。  僕はさらに、前方を凝視する。 (ん?何だ?何か変だぞ??景色が歪んでる????)  僕は目の前の景色の異常に気付いた。景色の一部が歪んで見える。そしてそれは、ゆっくりと移動しながら僕の方に近付いてくる様な気がする。  僕は何度も目を擦った。しかし、その歪みは消えない。それどころか、さらに僕に近付いてきている。  それは、透明な人影だった。確かに、透明で向こうの景色が見えるのだが、その人影が移動すると景色がその形通りに歪む。  僕は気分が悪くなり、立ちくらみを感じた。どんどん、その人影は近付く。 「おい!バカ!!伏せろ!!!!!」突然、背後から声が聞こえた。少しイントネーションが妙であったが、それは女性の声であった。 「え???」僕が振り返った瞬間、後ろにも背景の歪みがあるのに気付いた。しかも、その数は二つ。 「だから伏せて下さい!中津さん!!」さらに別の女性の声がする。  何故だろうか、僕はこの二つの声を遥か以前にも聞いた様な気がしてならない。  そんな事を考えていると突然、目の前に二人の女性の姿が浮かんだ。まるで、幽霊の様にどこからともなく。  彼女達は上下真っ黒の戦闘服の様なものを身につけ、額にはなにやらゴーグルの様なものをつけていた。また、全身に何か小さな金属のチップの様なものを無数にまとっている。  一人はかなり背が高く、髪は短い金髪だった。そして、もう一人は背が低く、驚いた事に銀色の髪をしていた。それも、完璧なまでの銀色で微かな陽光を幻想的に反射させていた。  僕は目を見開いた。なんだ、この人たちは!??どこから現れた??それに、何で僕の事を知っているんだ??  僕があまりにもの出来ごとに身体を硬直させた、その時!  パシュッ!パシュッ!  何やら空気が射出される音がした。と同時に、何故か視界に真っ赤な飛沫が飛び散った。 「バカ野郎!伏せろよ!死にたいのか!!」僕の目の前に現れた背の高い方の女性が、僕に飛び掛かり、覆い被さった。彼女は頭のゴーグルを下げると、右手に何か鈍く黒光りするものを持ち前方を狙った。  パンッ!パンッ!  僕の頭の上で、乾いた炸裂音がする。  僕は気になって、覆いかぶさっている女性を見た。ゴーグルの間から、短い金髪が揺れている。 (銃??まさか、そんなことあるはずない・・・)しかし、その女性が操っている鈍い色をした物体は銃にしか見えなかった。彼女が指を動かすと、乾いた破裂音と共に光が放たれる。  僕の鼻が火薬の燃える匂いを認識した。やはり、これは銃なのか??これは、夢か?それとも、手の込んだ冗談か?  僕は、あまりにもの現実離れした光景にあっけを取られていた。 「おい、ソフィア!お前のサーモスコープのバッテリーはまだあるか??私のは、もうダメだ!ぼやけて見えない!!」背の高い金髪の女性が、もう一人に怒鳴る。 「ダメだよ!アイシャ!!こっちも、バッテリーが無い!!あ、奴が逃げちゃう!!」ソフィアと呼ばれた女性が、腰につけた箱上の物を何度も叩く。 「くっそっ!NATOの技術者は何を作ってるんだ!!役にたたないじゃないか!こんなもの!!」アイシャと呼ばれた背の高い方の女性が僕の上から退くと、ゴーグルを脱ぎ捨て地面に叩き付ける。 「アイシャ・・・、奴を追わなくて良いの?」 「ああ、仕方がない。」  前方の透明な人影が、徐々に視界から消えていくのが見えた。いや、おかしいな。何故か視界が極端にぼやける。それに、右肩が極端に熱い。 「大丈夫か・・・!?」金髪の女性アイシャが微笑みながら手を差し出す。  僕は、彼女の瞳を見て息を飲んだ。彼女の瞳の色は左右で違っていた。左目は翡翠の様な深い緑色をし、右目は南国の海の様に透き通った碧色をしている。  その魅力的な瞳に見とれていると、突然熱かった右肩に激痛が走った。 「お、おい!あんた酷い怪我をしてるじゃないか!ほら、見せろよ!!!」アイシャが、急に慌てて僕を抱きかかえる。 「あああっ!さっきは、掠ったかなぐらいにしか思わなかったが、思いきり弾が貫通している!お、おい!大丈夫か!?」アイシャが僕の右肩を触る。僕は彼女の手を見て驚いた。その手が真っ赤に血塗られていたからだ。 (あれは・・・僕の、血・・・??)僕はそう認識した途端、視界が回転し始めるのを感じた。 「おい、おおおいいい!!英彦!!しっかりしろ!バカ、このぐらいで死ぬな!!おい、ソフィア!ソフィア!!こっちにきてヒーリングをしてくれ!このままじゃ、失血死しちまう!!」  (な、なんで、この人・・・アイシャって言ったっけ・・・が、僕の名前を知っているんだ・・・)  更に視界が回転する。どうやら、血液が流れ過ぎてしまったらしい。あっけないものだな、これでこの下らない人生も終了するのか。  身体中が冷たくなって行くのを感じる。何とか声を出そうとするが、口が思う様に動かない。 「中津さん!大丈夫ですか!!??今、止血しますから。もう少し頑張って下さい!」銀髪の女性ソフィアが僕の側に駆け寄り、ゴーグルを外す。  僕は心臓が止まるほど驚いた。何故なら、彼女の瞳は僕の血と同じ色をしていたからだ。  ソフィアが僕の右肩に手をかざし、聞き慣れない言葉を発する。すると、何故か右肩の痛みが和らいで行く気がした。 「おい、ソフィア。どうなんだ?」 「ん、大丈夫みたい。見た目よりも出血してないよ」 「じゃあ、なんでぶっ倒れたんだ?」 「んー、多分、今まで銃に撃たれた事がないから、そのショックのせいじゃない?」  二人の話声が、遠くで聞こえる。何だか、とても眠くなってしまった。さっきまでは眠れなかったのにな・・・ 「で、アイシャ。今回、記憶操作はするの?」 「いや、しない」 「え?何で??一般人に見られたんだよ?」 「だから、この人は一般人じゃないんだ」 「えええ?」 「だから、彼はわたしたちの仲間になるんだ」 「へ?だって、今回の任務は中津さんの警護じゃ?」 「いや、違う。わたしたちは、今日から彼と一緒に働くんだ。しかも、彼の家が隊舎になる」 (二人とも何の話をしているんだ・・・??)僕は二人に話し掛けようとしたが、眠くて話し掛ける気もしない。 「隊舎?」 「だから、彼と一緒に住むんだよ!」 「どえええっ!!?」  僕はそんなソフィアの声を聞きながら、彼女と同じ心境のまま気絶するかの様に眠りに落ちた。 *  真っ白な霧が僕を包む。何故かその感触に、僕は幼い日の母の抱擁を思いだした。とても心が休まる気がする。ここ暫く、全く味わっていなかった感覚だ。  僕が今より少しだけ幼かった頃、母はいつも泣いていた様な気がする。母は自分の声が父に伝わらない事を、父は自分の姿が母の心に無い事をいつも気に病み、衝突を繰り返していた。僕は泣き続ける母に色々話し掛けたが、一つだけ鮮明に覚えている事がある。 「お母さん!もう泣かないで。僕、良い子になるから。勉強、頑張るから。お手伝いもするから」  幼い僕は母が泣き止むよう、必死に嘆願した。すると、母は優しく僕を抱き寄せてくれた。母の発した「いいのよ」と言う一言が、今でも僕の心に鳴り響く。  確かに僕は少年時代を「良い子」として過ごしてきた。母に気に入られようと、最大限の努力をした。しかし、その事が数年後、僕の心に暗い影を落とすとは。  気付くと、僕の頬には大粒の涙がこぼれていた。 「ねえ、何で泣くの?何が辛いの?」ふいに霧の向こうから声がする。  僕は慌てて涙を拭った。と同時に、白い霧が段々晴れてきた。僕は周りを見渡した。周りは一面の草原だった。果てしなくその草原は続き、終わりが見えない。もしかしたら、本当に終わりが無いのかも、とさえ思える広さだった。見たところ、その広さ以外は普通の草原に見えたが、僕は奇妙な事に気付いた。  それは、太陽が見えない事だった。全天が晴れ渡りつつあるのに、太陽が見えない。まるで空全体がぼんやりと光っているようだった。それに、風景全体の色彩が極端に薄い。足下の草が限り無くグレーに近い緑色をしている。いや、それだけではなく、全ての色が煤けて見える。 「英彦さん・・・」優しく僕を呼ぶ声がする。 「誰?」僕は、その声にとてつもない懐かしさを感じた。その声を聞いた途端に、心の鎖が解きほぐされる感じがし、僕の頬にはまた涙が伝わり始めた。 「英彦さん。やっと会う事が出来たね。ずっと、ずっと待っていたんだよ」  霧の向こうから優しく微笑む女性が現れた。彼女は肩まである銀髪を掻き揚げ、その血の様な真紅の瞳で僕を見つめた。  そう、声の主は先ほど僕の肩をみてくれた女性だった。女性と言っても、まだ顔立にあどけなさが残っている。 「ソフィアさん・・・」僕の口から、ふいにその名が出る。初めて声に出した彼女の名前。しかし、僕はずっと以前から彼女の名前を知っている気がする。 「ふふふ・・・。憶えてくれていたんだね、私の名前を。うれしいな・・・」ソフィアは満面の笑みを浮かべると、僕に近寄ってきた。彼女が上目遣いで僕を見つめる。 「さあ、行こう」ソフィアはそう囁くと、僕の手をギュッと握り締めた。 「何処に・・・?それに、そもそもここは何処なんだ?」僕はソフィアの瞳を更に見つめる為に、顔を下に向ける。ソフィアもそれに答えるかの様に、僕の方を見つめる。 「ここは、英彦さんの、いや全ての人々の心の世界。全てはここから始まり、ここで終わるの。さあ、行こうよ」  ソフィアが顔を近付けてくる。僕の意識はどんどん薄れて行く。 (行く?何処に?そうか、僕はもう死んだんだ、きっと・・・)僕は漠然とそんなことを考えた。 「じゃあ、行くよ。さあ、わたしの手を強く握って」  僕は言われた通りにした。 「それじゃあ、英彦さんの未来を少しだけ見せてあげる。過去が余りにも辛かったのなら、未来はきっと素晴らしいものだから」  ソフィアはそう言うと背伸びをして、僕の額に軽くキスをした。  突然、目の前が真っ暗になる。しかし、恐怖は全く感じない。それどころか、奇妙な安堵感さえ感じる。これは、先ほどの白い靄とも違う、何か大きな存在によるものだ。  僕は頭上を見回した。空高くに気味が悪いほど大きく、青白い満月が輝いていた。 「英彦さっん!どうしたの?ぼんやりとして?」僕の右隣から女性の声が聞こえる。  右を向くと、そこには僕の腕を握るソフィアがいた。僕は彼女の姿の異変に気付き、首をかしげた。 (あれ?髪も瞳も真っ黒だ?)  ソフィアの瞳と髪の色は、この漆黒の闇よりも黒く、周囲の光を吸収していた。 「ソ、フィアさ、ん・・・??」僕はそう呟きながら、周囲を見渡した。よく見るとここは完全な闇では無く、足下が月明かりに照らされて道が見える。そして、このゆっくりとカーブを描いた道の両側には田畑が見え、さらに右手の方には何やら住宅らしき明かりと、鉄道の駅らしきものが見える。  僕は今まで、こんな景色を見た事がない。だが、何故かここを知っている気がする。 「やだなあ。何、『さん』なんて付けてるのよ。出会ったばかりの頃じゃないんだし。それより、急ごう!ほら!」ソフィアはそう笑いながら言うと、僕の手を取り歩き出した。 「お、おい・・・急ぐって、どこに??」僕は慌てて、立ち止まった。 「どうかしたの?英彦さん??わたしたちの家に帰るに決まっているじゃない!?」ソフィアはきょとんとして、僕を見つめる。 「あ、ううん・・・何でもないよ」僕は訳が分からず、適当に相槌をうった。 「そう?変な英彦さん」ソフィアは、なおも微笑みながら、僕の右腕にしがみつく様に寄り添ってきた。僕は、彼女の身体の柔らかい感触を肘に感じると、顔を赤くした。 「ねえ、英彦さん。わたしね、言いたい事があるの。いつも、言いたかったんだけど恥ずかしくて言えなかったんだ・・・」  ソフィアが僕の前に回り込むと、恥ずかしそうに俯いた。 「あのね、英彦さん。わたしね、本当に英彦さんと出会えて良かったって思うんだ。わたし、英彦さんの声を聞いて、瞳を見つめるだけで心が満たされる気がする・・・」  そう言うと、ソフィアは恥ずかしそうに僕に背を向けてしまった。  ソフィアが、僕の返事を期待している事には気付いている。だが、僕は声を出す前に彼女のその愛しい姿を見て、後ろから強く抱き締めてしまった。  ソフィアは黙ったまま、何も反応を示さない。僕は焦った。とんでもない事をした、と真剣に心配をした。 「痛いよ・・・英彦さん。でも、こうして抱き締められると、とっても・・・」  ソフィアはそう言うと、自分の身体に回された僕の腕を愛おしそうに、優しく握り締めた。  僕はソフィアの事が、更に愛おしくなり、更に強く抱き締めた。 「英彦さん。ずっと、ずっと、一緒にいようね・・・」  ソフィアが僕の方に向こうとした瞬間、また目の前の景色は、あの灰色の草原へと戻っていた。 「ソフィア・・・」僕は小さく彼女の名を呼んだが、返事は無かった。また、世界を無音が支配し、耐え切れない孤独が僕を責め立てた。 「おい、英彦・・・!」また、霧の向こうから僕を呼ぶ声がする。 「英彦、お前は何故ここにいる?何故、存在するのか?」  僕の肩へふいに力強い真っ白な手がかかり、僕を引っ張った。僕が引っ張られた方に向くと、そこはもう草原ではなかった。    そこは、どぎついまでに色彩が強調された、広い砂漠であった。砂は目が焼けるばかりの金色をし、空は気分が悪くなるほど蒼かった。そして、先ほどと同じく太陽は見当たらない。  僕のすぐ目の前には、短い金髪の女性が鋭い目つきをして立っていた。僕の姿が、彼女の左右違う色の瞳に映る。そう、彼女もまた僕が撃たれた時に側にいた人だった。確か、アイシャとか言ったっけ。 「え?そ、そんな、突然言われても・・・。それより、ここは何処なんだ・・・?」僕はアイシャの突拍子もない質問と、どうしようもなく不可思議なこの光景に狼狽えていた。 「ここか?ここは、そうだな、簡単に言うとお前の望む世界だ。そうだ、お前の心のどこかで望んでいる、崩壊した世界だ」アイシャは腕を組みながら、鋭い目つきで僕を見つめ続ける。その眼差しは、僕を睨み付けると言うより、見守っていると言う様な一種の愛情の様なものが含まれている気がする。 「それに、『僕が何故いるか』なんて、僕に分かる訳ないじゃないか!」 「ふふふ・・・、いきなりでは答えられないか・・・。じゃあ、別の言い方で聞こう」アイシャは僕に近付き、僕の首に両腕を優しく絡ませながら微笑んだ。僕は彼女の芳香とその魅力的な瞳に身動きをする事が出来なかった。 「英彦・・・、お前は何をする為に生きている?」アイシャの甘い吐息が、僕の頬にかかる。 「余計、分からないよ・・・。アイシャさん・・・君は?」僕は高熱によって朦朧している様な意識の中、低い声で囁いた。 「・・・、まあいい。それじゃあ、その答えを出す為の手がかりを探しに行こう」アイシャはそう言うと、僕の耳もとに口を近付けた。 「え?」僕は前方をボーっと見つめる事しか出来なかった。耳にかかるアイシャの吐息が、とても心地よい。 「さあ、行くぞ。私と英彦にとって一番大事な、あの日に」アイシャはそう言うと、やや強く僕の耳たぶをかじった。僕は腰から力が抜ける様な感じがして、へたり込んでしまった。  ガタン、ゴトン ギシ、ギッシ ガタン、ゴトン ギシ、ギッシ・・・・  僕は身体を揺すぶられるのを感じて目を開けた。そこはもう、あの奇妙な砂漠ではなかった。もちろん、ソフィアがいた草原でもない。  そこは、列車の中だった。しかも、かなり薄汚れている古い感じの客車だった。椅子はボックス席だが木で出来ており、僕には少し小さい様に感じられた。また、かなり使い込んでいるらしく、身体を傾けると嫌な音を立てた。  僕は両目を見開き、席を立ち上がった。車内を見渡すと、僕以外にも何人か乗客がいた。皆、自分の世界に入り込みこちらを見ようともしない。 「あ、あの、この列車は何処行きなんですか?」僕はおずおずと、後ろの席に座っていた初老の男に話し掛けた。しかし、返事は無い。  僕は怖くなった。この世界は現実ではないと認識はしているのだが、周りの人々は全て石で出来た彫像の様にみじんも動かない、その光景に強烈な畏怖を感じたのだ。  僕はなんとか心を落ち着かせようと、席に座り窓の外を見た。そこには、ごく普通の緑溢れる景色があった。ここは、山間部なのだろうか?ときたま、トンネルに列車は飲み込まれていった。 (これは、夢なのか?それとも、やはり僕は死んでしまったのか?)そんなことを考えていると、またトンネルが向かってきた。  今度はやけに長いトンネルだった。僕はぼんやりと、窓から漆黒の闇を見つめていた。 「おい、英彦。どうした?何か面白いものでもあるか?」  突然、前から女性の声がする。聞き覚えのある声だ。 「ア、アイシャさん・・・!?」僕は気配も無く、僕の前に座ったアイシャを怯える様に見つめた。 「どうした、英彦?狐につままれたような顔をして」アイシャがニコニコと微笑みながら、僕の額を軽く小突いた。 「どうしたって・・・、ここは何処なんだ?それに、君はいつ僕の前に座った?そうだ、この列車は何処へ向かうんだ?」僕は焦る気持ちを押さえつつ、早口でアイシャに問いかけた。 「英彦、何言ってるんだ?何か、今日の英彦はおかしいぞ。お前がこの旅に誘ったのではないか?」アイシャが、不思議そうな面もちで僕を見つめる。 「え・・・?」僕は何も答えられなかった。 (何だ?この世界は現実なのか、夢なのか??)  僕が考え込んでいると、アイシャが窓の外を眺めながら、僕がやっと聞きとれるほど小さい声で呟いた。 「私は英彦と出会えて、本当に幸せだと思う。こんな私でも、お前は側にいてくれるからな・・・」  アイシャが若干俯きながら僕の方を向く。その一見大人びた顔つきが、まだ本当の恋を知らない少女のように、紅く染まる。 「なあ、憶えているか?お前は、私がどうしようもなくなった時、私がどうしても這い上がれない状況になった時、あの氷の様に冷えきった部屋で最後の手段を取ろうとした時、私と共に泣いてくれたよな。私は、それまで涙と言うものが嫌いだった。あんな物は、ただの逃げ口上の為の道具だと思っていた。だけど、英彦、お前の涙は違っていた。お前の涙は私の心に広く広く染み渡った。まるで、干上がったオアシスに注ぎ込む最後の水の様に」 『最後の手段』―  その言葉を聞いた瞬間に、脳裏に有り得ない光景が浮かんだ。こんな事は、ある訳がないのに。  そこは暗く冷たいコンクリートがむき出しの部屋だった。どうも地下室らしい。一切、自然光が射し込んでいない。あるのは、奇妙なほど青白い一本の蛍光灯だけだ。  僕はその部屋の中央附近に立ち尽くしている。そしてアイシャが、壁に寄り掛かりながら座り込んでいる。彼女は無表情に泣いていた。悲しみも怒りも顔に出さず、ただ、淡々と涙を流し続けている。 「なあ、英彦。もう、涙も涸れてしまった。やはり、私は存在してはいけない。私は化物だ。お前を苦しめる事しか出来ない」アイシャが、宙を見つめながらボソボソと呟く。  そして、アイシャがそのしなやかな腕を掲げると、その真っ白な腕は真っ赤に染まっていた。僕はその時に、ようやくこの部屋が錆の様な匂いに充満している事に気付いた。そう、彼女と僕は血に海のまっただ中にいたのだ。  僕が目を潤ませながらアイシャを見つめると、彼女は大きくため息をついた。 「ありがとうな、今まで。もう疲れた・・・。私は先に行く事にする。あの苦痛も悲しみも、いや全てが存在しない最も素晴らしき世界に帰るよ。ありがとう、本当にありがとうな・・・」  次の瞬間、アイシャは銃を自らのこめかみにあてると、何もかもを吹っ切れた様な笑顔を浮かべた。彼女の頬に残る、涙の痕がとてもとても悲しく光っていた。  その光景を見て僕はアイシャに飛びつき彼女を強く抱き締めると、声も出さずに泣いた。アイシャも嗚咽を洩らしながら僕の背中を強く抱き締めた。  僕の白昼夢はここで途切れた。僕は、また列車に揺られ始める。 「ん?どうした英彦?」アイシャが微かな照れを含んだ笑みを浮かべながら、僕の顔を愛おしそうに見つめる。 「い、いや。なんでもない・・・」僕はアイシャの視線を意識したせいか、顔が火照るのを感じた。 「とにかくな、英彦。私の人生は失敗ばかりだったと思う。いや、皆が言う様な人生なんてものは存在しなかった。だけどな、そんな人生でも唯一素晴らしい事があった。それは、お前に出会えた事だ。私は世界で一番幸せなヤツだと思うよ」  僕はアイシャの唇から漏れる言葉を聞いて、図らずも涙を流し始めてしまった。理由は分からない。けど、何故かアイシャの言葉は僕の心を思いきり揺さぶっていた。 「おいおい・・・英彦。どうした・・・?迷惑だったか?こんな事を言って・・・・」アイシャが、どことなく気まずそうに目をそらしながら話し掛ける。  僕は答えを声に出すかわりに、首を大きく左右に降った。アイシャは、そんな僕を見て瞳を潤ませていた。  再び、列車はトンネルに入る。  僕はその暗闇の中、アイシャの唇の感触を感じていた。  そして僕は底の無い湖に沈む様に、さらに深い暗闇の中へと落ちていった。 * 「・・・・、でさ、ソフィア。これから、ここに住む事になるんだけど、お前はいいのか?」 「・・・うん。だって、そう言う命令なんでしょ?それに、あの中津さんって結構良い人みたいだし。でも、何で一般人が隊員になるの?」 「あ、お前知らないのか?私も一般人と言うか、普通の軍人だったんだぞ。別に、お前たちの同胞だけが、天界警察を動かしている訳ではない。実際、この世界では、私達は国連職員の身分だしな」 「え?じゃあ、アイシャは人間なんだ」 「ああ、だって私の瞳は紅くないし、髪だって銀色ではないだろ」  遠くから二人の女性の話し声が聞こえる。何を話しているんだ?それに、まだあの二人は僕の側にいるのか?あの体験は夢ではなかったのか?  まだ全身が鉛の様に重く、感覚が鈍い。だが、意識が覚醒すると共に徐々に右肩の痛みを感じ始めた。  何故か頭が締め付けられる様に重い。しかし、僕は力を振り絞って頭を横に動かし、目をゆっくりと開けた。まだ、視界がぼやけているが、目を擦ると何とか時計の赤い文字盤が見えた。  時計は、午後3時過ぎを示していた。確か僕がコンビニに出かけたのが午前3時過ぎだったから、あれから12時間も過ぎてしまったのか。  僕は、まだ微かに痛む右肩を動かしてみた。稼動範囲は狭いが問題なく動く。それに、着ているセーターを脱ぎ確認してみたが、傷口は全くなかった。やはり、あの銃で撃たれたなんて言う馬鹿げた体験は夢だったのだろうか?その時、僕は違和感を感じた。 (あれ?コンビニに行く時に着ていたセーターと違う??)  僕は首をかしげながらゆっくりと起き上がると、ふらつく足をなんとか動かし二人の話声の聞こえるリビングへと向かった。  リビングの方から聞こえる話声が段々と大きくなる。 「おい、ソフィア!お前、何食ってるんだ!?それは、この家にあったものだろ?」 「だって・・・」  僕はかなりの目眩を覚えながら、リビングのドアをそっと開けた。二人の話声が大きく漏れ出す。 「そんなに食うから太るんだ!」 「ひっどーいっ!!!」  僕が恐る恐るドアを開けると、そこにはポテトチップスをくわえ、僕のジーンズとパーカーを着込んだ女性が床にペタンと座り込んでいた。彼女と僕の目があう。 「あ、あの・・・、ここでいったい、何をなさっているんでしょうか???」僕は訳が分らなくなり、そんな間の抜けた質問をした。 「はにゃ?」肩ぐらいまである固そうな黒髪をした女性が、ポテトチップスを口にくわえながらこちらに振り向く。 (あれ?この人、ソフィアさんって言う人だっけ?あれれ?さっきと違って髪の毛も瞳も黒いぞ?) 「あ、もう大丈夫なのか?心配したんだぞ。結構出血していたからな。それに、あんたを自宅まで運ぶのにも苦労したよ。でも、良かった。大事に至らなくて」僕が呆然とポテトチップスをくわえる女性と向き合っていると、その隣に背が高く金髪でオッドアイの女性が腰を下ろした。  僕は二人を交互に見比べた。今僕の目の前には、20代はじめに見える白人の女性と、どう見ても高校生、いや見ようによっては中学生ぐらいにしか見えない黒髪の女性が座っている。しかも、二人とも僕の洋服を着ている。確かに、二人に命を救われた記憶はある。と言う事は、やはり先ほどの銃撃戦は現実だったのか? 「あ、中津さんの傷を看る時に血が付いてしまったから、無断で洋服を借りている。すまんな」僕の視線に気付いた金髪の女性が、自分の着ているタートルネックのシャツを指し示す。 「あ、あと、勝手にポテチを食べちゃいました。ごめんなさい、お腹が減っていたから・・・」黒髪の女性がポテトチップスの缶を僕に差し出す。 「え?ああ、いや服やポテトチップスぐらいはいいんですけど・・・。あ、あのっ!お二方は『アイシャさん』に『ソフィアさん』でいいんですよね」僕は訳が分からないなりに、現状の情報を収集しようと冷静さを保つ様に努力した。 「あ、そうだな。まだ自己紹介をしていなかったな。これから一緒に働く仲間なのに、うっかりしていた」 (一緒に働く???そう言えば、意識が無くなる寸前もそんな事を聞いた様な気が・・・)僕がそんな事を考えていると、二人は自己紹介を始めた。 「私はアイシャ、アイシャ・サハクィエル。天界警察、CPの捜査官だ。まあ、アイシャって呼んでくれ。どうも、『さん』付けは性にあわなくてな。とにかく、これからよろしくな。中津さん」金髪の女性が、そう言いながら手を差し出す。 「あ、どうも。僕も名前で呼んで下さい」僕は、そんな間の抜けた返事をするのが精一杯で、ぎこちない笑みを浮かべながらアイシャの手を握った。 「あ、わ、私はソフィア、ソフィア・ティアイエルって言いますっ!あ、あの、ほ、本当に勝手にポテチを食べてすみませんでした。よ、よろしく」黒髪の女性の方は、かなり緊張している様で顔を真っ赤にしながら、おずおずと手を差し出した。 「あ、ああ、よろしく。・・・それで、ソフィアさんは・・・」僕はソフィアの手を弱く握りながら、彼女の瞳と髪の毛を見比べた。どうも、気になる。何で黒くなっているんだ。 「はい??何ですか?」ソフィアが更に顔を赤くし、落ち着きのない様子で僕に訊ねる。 「くくくく、ソフィアは男と付き合った事があまりないからな。結構、いい歳のくせして。多分、英彦はお前の髪と瞳の事を気にしてるんだろう?」アイシャはそんな事を言いながら、彼女のものと思われるアタッシュケースをテーブルの上に置き、何やら探している。 「あ、これですか?これは一時的に色を変えているんですよ。元のままだと、この世界では目立ち過ぎますから」ソフィアが照れくさそうに笑いながら、末端の跳ね上がった髪を撫で付ける。 (この世界??この世界以外の所にソフィアはいたのか?それにそう言えば、何で彼女達は僕のフルネームを知っているのだろう?他にも、さっきの夢の事もあるし。あと、彼女達は僕に馴れ馴れしすぎないか?初対面なのに。いや、初対面なのか?僕は以前に、彼女達と会っている様な気がする・・・) 「そ、そうだ!き、君たちは誰なんだ!?何故、僕の事を知っている!??それに、何故僕は撃たれたんだ!」僕は突然、不気味なものを感じ、じりじりと後ずさった。 「だからあ、中津さんは天界警察の補助隊員になるんですよ。多分、私達の補助をする任務だと思いますけど」ソフィアが、あっけらかんとそんな事を言う。 「てんかいけいさつ?」僕は聞き慣れない言葉を聞き、ぽかんとした。 「へ?だって、連絡は来ていたでしょ。国連から」ソフィアが目を見開く。 「こくれん?こくさいれんごーのこと?」ダメだ、完全に僕の思考回路は停止してしまった。 「さあさあ、英彦。ここにサインをしてくれ。ほら、こっちには任務の内容と福利厚生、保険、それに給与に関しての書類があるから」アイシャが僕の側に寄り、書類の束を渡す。  僕は困惑しながらも、取り合えずその書類を読む事にした。まず、最初に一番上にあった『天界警察補助隊員任命書』と書かれたものに目を通す。 『天界警察機構は下記、中津英彦を国際連合及び日本政府の認可により、本日をもって天界警察準隊員として徴用する。なお、該当人がこの令を拒否した場合、天界警察憲章第23章「守秘義務及びそれに関する情報操作」の第26項「記憶の制御及び操作」を実行する』 「何、これ・・・」僕は漠然とした何かを感じながら、更に他の書類も読み進んだ。 「・・・!」僕は、その中のある書類に信じられない物を発見した。それにはいつ撮られたか分からない僕の全身写真の他に、僕の出身地、出身校、家族構成などが書いてあったのだ。まだ、それだけならいい。更に信じられない事に、公的な資料には残っていないはずの病歴や、僕の生活パターンまでが詳細に記載してある。 「さあ、さあ、もう読んだだろ?ここにサインをしてくれ。そうしたら、すぐに本部へ転送するから」アイシャは、驚きのあまりに目を見開いている僕など、眼中にないかの様に言った。 「だ、だから・・・、天界警察って何なんだよ!それに、君たち誰なんだ!!」僕は、声を震わせながら振り絞る様に叫んだ。  アイシャとソフィアが不思議そうに僕を見つめる。 「え、まさか・・・、本当に連絡は来てないんですか・・・??」ソフィアが小首をかしげる。  僕は彼女達の不思議そうな眼差しに答えるべく、力なくこくこくと頷いた。 「なに!!!まさかっ!じゃあ、本部の連絡ミスか!?」アイシャが血相を変えて叫ぶ。 「どうしよう・・・、アイシャ」ソフィアも落ち着きのない声を出す。 「いや、どちらにしろ、英彦には隊員になってもらう。日本国民である限り、いや、『人間』である限り本部の命令は絶対だ・・・」 「じゃあ、中津さんが拒否したら・・・」 「無論、最終手段を施行する」  僕はそこまで彼女達の会話を聞くと、なんだか不安になり逃げ腰になった。 「な、なな何?だから、君たちは、ななななな、何者?」僕はじりじりと後ずさりながら、逃げ道を確保しようとするが、 「おっと、逃げるなよ。まあ、話ぐらい聞けよ」と、いつの間にか、僕の背後にアイシャが立つ。彼女の吐息が耳にかかる。 「じゃあ、説明しますね・・・。えっと、天界警察って言うのは『国連の付属組織で、通常の警察、軍隊が介入できない類の事件の捜査や報道規制を行う公安部隊』なんですよ」ソフィアが腕を組みながら、一生懸命、天界警察とやらの定義を思いだしている。 「え、そ、それで、どんな事件を扱うの?それに、僕と何の関係が??」僕は後ろにいるアイシャを気にしながら、おどおどと答えた。 「そうだなー、例えば『クローニングによる臓器工場の摘発』とか『凶暴性を増加させるドラッグの無差別散布の阻止』とか、あ、そうそう『優生主義者による人類改良計画施設の爆破』もあったな」アイシャは僕の肩を軽く何度もたたきながら、僕の横に並び腰に手を回した。柔らかい感触が僕の身体に伝わる。 「それにお前は、天界警察に必要だから、こうして採用されたんだよ」アイシャが僕に囁く。 「た、確かに、さっきの銃撃戦は本当だったみたいだし、君たちは僕を助けてくれた。でも、そんな組織があるなんて信じられないよ。それに、なんでアイシャさんは銃を持っているんだ?警察に捕まらないのか??」僕は頭を激しく左右に降った。 「警察?あんなものは、私達の力でどうにでもなる。私達には許可さえあれば、人を殺しても許される。そもそも天界警察自体、各国の政府よりも力がある」アイシャが、僕の頭を優しく撫でる。何故かその感触が、とても心地よい。 「そんな、いい加減にしてよ!そんなに力がある組織なんてある訳がない!もしあるとしたら、誰が運営しているんだよ!!」僕は自分の置かれている状況に気付き、アイシャの腕を振払った。  アイシャは、そんな僕の様子に驚くと、突然目つきを厳しくした。 「この世界を動かしているのは、人間だけだと思うなよ」 「え?」僕は、アイシャが何を言っているのか分からなかった。 「さあ、早くサインをしてくれ。でないと、最終手段を取らなければならない」 「最終手段・・・?」僕は全身の血流が止まるのを感じた。 「ドラッグによる洗脳と記憶操作だ。それがだめなら、残念だが・・・、消えてもらう」 アイシャはそう言うと、いつの間にか僕の腕を捻り上げた。物凄い力で、もがけばもがくほど腕が締まる。 「ソフィア、一応、用意だけしてくれ」アイシャがそう言うと、ソフィアは目を潤ませながらアタッシュケースから注射器とアンプルを取り出し、アンプルの中身を注射器にうつした。 「ごめんなさい、中津さん。これも、命令だから・・・」ソフィアは、細かく震える手で注射器をアイシャに渡した。 「さあ、どうする?」  鋭い目つきで僕を見つめながら、アイシャは厳しく、そしてどことなく優しく言う。 「・・・」  僕は迷った。確かに、今までの出来事は嘘には思えない。今から半日前、僕は肩を打ち抜かれた。しかし、今ではもう傷はない。これは、ソフィアが癒したはずだ。  ここでもし全ての事が嘘だとしてら、こんなに巧妙な嘘をつく必要があるのだろうか。やはり、万が一の事を考えてこの場ではサインをした方がいいだろう。そして、もし本当にヤバそうになったら警察に駆け込もう。例え、警察には僕を救う力がないとしても、それしか方法はない。 「ほら、どうするんだ?入隊するか、記憶を消されるか、それとも存在を消されるか・・・」アイシャが、頭を抱えている僕に囁く。 「分かった・・・、サインをしよう。さあ」僕は意を決すると、アイシャに手を差し出した。 「よし、ではこの誓約書にサインをしてくれ・・・」アイシャは僕に紙切れ一枚と、万年筆を手渡した。  僕は、ゆっくりと丁寧に自分の名前を漢字で記す。 「ほら、出来たよ」僕がアイシャにそれを手渡すと、彼女は僕にナイフを差し出した。 「最後にやらなければならない事があるんだ。お前の血で、ここに血判を」 「ははは・・・、まるで悪魔と契約をするみたいだな・・・」  僕のそんな一言に、アイシャとソフィアが表情を強ばらせる。 「・・・っ!」僕は、自分の右手の人さし指にナイフを滑らせた。ゆっくりと溢れ出した赤い液体を親指で塗り広げる。  そして、僕は痛む人さし指を誓約書に押し付けた。すると、その途端に誓約書は黄金に輝き、宙に舞うと何処かへと消え去った。 「さあ、中津さん。指の怪我を治しますから」僕が腰を抜かしながら、誓約書が消え去った辺りを見つめていると、ソフィアは僕の指を何度も摩った。段々と暖まってくる指に気付き、僕はソフィアの方を見つめた。何だか、そんな彼女の姿がとても愛おしく見えた。 「あ、傷が・・・。ソフィアさん、何故こんなことが・・出来るんですか?」 「へへへ・・・、私にも分からないんです・・・。それよりも、『ソフィアさん』なんて恥ずかしいですよ。呼び捨てで良いです」ソフィアが完全に直った僕の指を、消毒液を浸したガーゼで綺麗に拭く。 「あ、じゃあ、僕も呼び捨てでいいですよ」僕は、治った指を何度も見返した。 「・・・、呼び捨てなんて恥ずかしいです・・・」ソフィアが顔を赤くして俯く。 「それじゃあ、『さん』付けで良いから名前で呼んで下さい」 「はい・・・英彦、さん」ソフィアは僕の名前を呼び終わると同じに、さらに顔を赤くした。 「二人とも何をやっているんだよ。どっちも、成人しているくせして」アイシャが、僕らをからかう。 「成人!??」僕は驚いた。ソフィアはどう見ても15、6歳にしか見えない。 「まあ、こいつは童顔だし、私達と違って寿命が若干長いからな。それで、実際の年令よりも若く見えるんだ」アイシャがソフィアの頭を、クシャクシャにする。 「やめてよー」ソフィアが子供の様に、身体をくねらす。しかし、その表情は曇っていた。 「『私達と違う』って・・・どう言う意味!??」僕は、アイシャが何を言っているのかが理解出来なかった。  僕の反応を見て、アイシャがしまったと言う様な顔つきをした。 「すまん・・・ソフィア・・・」 「ううん・・・、どうせ任務開始と同時に、私から言おうと思ってたから・・・」ソフィアが、何かを吹っ切る様な笑顔を浮かべた。その笑顔は、やや淋しそうに見えた。 「そうか、すまんな」 「あのな、英彦。ソフィアはな、少し私達とは違うんだ。まあ、大した違いではないが」アイシャは真剣な眼差しで、僕を見つめた。  部屋の空気の流れが極端に遅くなる。全ての動きが何者かに制限され、静寂が訪れる。 「じゃあ、いったいソフィアは・・・!」僕はソフィアの瞳を見つめた。  いったい、何が違うと言うのだろう。髪の色だろうか、瞳の色だろうか。それとも・・・  ソフィアが僕の視線に気付き、目をそらすといくぶん身体の向きをかえた。まるで、僕に見つめられる事を拒否しているかの様に。 「・・・、さっきも言ったけど、この世の中には私達以外の知的生命体もいるんだよ。それも、私達よりずっと以前からな。まあ当たり前か、私達自体、彼らの亜種だからな」アイシャは沈黙をに耐えられなくなったのか、そう囁いた。 「ほら、ソフィア。英彦に打ち明けるんだろ・・・?」  ソフィアがアイシャに促されて話し出そうとするが、なかなか出来ないでいた。その表情は、悲壮感さえ感じさせる。何かをひた隠しにしようとする、その表情。僕はそんな彼女を見て、一種の罪悪感さえ感じた。 「おい、ソフィア。辛いんだったらさ・・・」  そんなアイシャの言葉に反応するかの様に、ソフィアはゆっくりと確実に口を開いた。 「ううん。今、言うよ・・・」 「英彦さん・・・、そう、私は英彦さんやアイシャとは異なる存在なんです。私達の一族は、遥か昔からこの地球に住んでいました。あなたがたが登場した頃は、私達とあなたがたは仲良く暮らしていましたが、有史以来、あなたがたは私達を時には神と崇め、時には悪魔や魔女として抹殺しました。それで、魔女刈りのあった中世以降、私達はあなたたちと同じ様に振る舞ってきたんです・・・」ソフィアはそこまで言うと、目を潤ませ始めた。 「・・・」僕は何故か落ち込むソフィアを見て、とても切なくなり彼女の側に寄り添うと、彼女の肩に優しく触れた。 「ありがとう・・・」ソフィアの頬に一筋の光る線が出来る。  僕は自分のハンカチをソフィアに差し出した。すると、ソフィアは僕の腕を掴み、彼女の瞳は僕の瞳をとらえた。 「あの、わたしは・・・『天使』なんです・・・。少なくとも、そう呼ばれていました」ソフィアが、僕にだけ聞こえるぐらいの小さな声で囁いた。 「えっ?」僕はソフィアの言葉を聞いて、大して驚きはしなかった。理由は分からないが、当たり前の事の様に受け取れた。 「・・・『えっ?』って、それだけですか??何でもっと驚かないの???」ソフィアは涙をハンカチで拭きながら、不思議そうな顔をした。 「いや。うーん、何故だろう??なんか、すごく不思議なんだけど、別に大した事ではない様な気がする・・・」 「だって、だって、もしかしたら、わたしは化物かも知れないんですよっ?傷を素早く癒す事もできるし、それに髪や瞳だって・・・」ソフィアは僕のセーターを掴み、懸命に話し続ける。 「うーん、そうかな?別にソフィアは特別な力を持っていて、綺麗な髪と瞳を持っているだけだろ?僕から見れば、可愛い女の子には違いないからね」  正直言って、僕のおかしい程の冷静さに僕自身驚いた。何故か、そんな事どうでも良い様な気がしてならない。 「英彦さんっ!やっぱり、英彦さんだあ!全然、変わってない!!」  ソフィアは満面の笑みを浮かべると、僕の胸に飛び込んできた。 「お、おいおい」僕は出会ったばかりの女性に、そんな事をされていささか驚いた・・・。いや、昔もこんな事があった様な? 「コホン。さーて、あいつらがイチャついている間に、私はこれを片付けるか」アイシャは軽くせき払いをすると、注射器の中身を捨てに行った。 「あっ!ご、ごめんなさい!私、何で初対面の人に・・・」ソフィアは急に僕から離れると、モジモジと下を向いた。 「お、いや、あ、あの、その、ア、アイシャ!その薬は勝手に捨てて良いのかい?」僕は照れを誤摩化す為に、アイシャにあの記憶を操作する薬の事を訊ねた。 「ん?これか?だって、これはただの生理食塩水だぜ?ほら」そう言うとアイシャは、注射器中身を指先にたらすと、それを舐めてみせた。 「それにほら、この針だって先が潰れているんですよ」ソフィアも紅くなった顔を誤摩化す様に俯きながら、アイシャから注射器を取り上げると、それを掌に何度もあてた。 「じゃ、じゃあ君たちは・・・」僕は身体の底から震えが起きるのを感じた。 「そうだ、ごめんな。こうでもしないと、普通の神経の持ち主じゃ隊員になってくれないからな。まあ、私が入隊した時もこんな感じだったんだぜ」アイシャが目を閉じ、腕を組ながら何度も頷く。 「ごめんなさ〜い。こうしろって、命令があったから・・・」ソフィアは、申し訳なさそうに僕を見る。   「と言う事は、この薬はインチキだと」僕は全身に脱力感が満たすのを感じた。 「そう、インチキだよ。あ、でも天界警察に入ったって事はインチキじゃないぞ」アイシャはそう言うと、ニイっと笑った。 「なーんだ、薬はインチキか・・・。よかった」僕はそこまで言うと、再び気が遠くなるのを感じた。 *  それにしても、今日は本当に疲れたな。こんなに一日が長く感じたのは生まれて初めてだ。まだ、二人の事は良く分からないし、これから僕が、天界警察とやらで何をさせられるのかも全く分からない。  だけど、僕は二人に会えて本当に良かったと思う。何故なら彼女達は、僕のこのどうしようもなく退廃的な日常を変えてくれるような気がするからだ。  僕はもう暫くの間、僕を殺す事をやめよう。彼女達との日々の中で、もう一度僕を見つめ直そう。  もしかしたら、僕はその事で救われるかも知れない、そんな期待を抱きつつ、僕はぼんやりとした無意識化の世界に落ち込んでいった。