ふと空を見上げると、珍しく曇っていた。まるで、生温い鉛が溶け出しているかのよう。俺は生暖かいような、それでいて肌寒さを感じさせるような奇妙な感触に、どこか不安を感じている。
五月と久しぶりに出会ってから、すでに一週間が経つ。この前、そうだな四日前だ、突然俺の家を訪ねてから、ぱったりと会わなくなった。そんな五月を心配し、取りあえず彼女の実家へと向かう事にした。それにこの前、つまり最後に会った日に五月は『借りていたものは実家にある』と言っていたので、その事について彼女の両親に尋ねるのも良いかもしれない。
それにしても、昔の知り合いの家へ久しぶりに行く事がこんなにも心理的な負担になるとは。今更五月の実家へ行って、彼女の両親にあってどう挨拶すれば良いのだろう。「こんにちは、お久しぶりです。如月です。憶えておいでですか?」とでも言えばいいのだろうか。いかん、間抜けすぎる。
五月と会っていない時間の重みに加え、それ以上に十年近くも前の記憶を頼りに道を進むというのも、かなりの重労働だ。
「で、五月さんの家は、そろそろですか?」学校帰りの優恵が、チュッパチャップスを舐めながら訊ねる。俺は一人でこっそり五月の家を訪ねようとしたのだが、出かけようと玄関を出たところで、なぜか優恵が制服姿のまま待っていたのだ。どうやら、前日の俺の仕草から、動物的な勘で俺の考えを読んだらしい。
「確か…、あれぇ?」俺は記憶の奥底に眠る地図を広げ、あたりを確認する。その地図には、もう目の前に五月の家がある事になっているのだが…、全くそれらしい家は見つからない。
「どうしたんですか?」優恵がチュッパチャップスを口から取り出す。
「いや、確かこの辺だと…」俺は懸命に辺りを眺め、何とかして記憶の地図の位置関係とあわせようとした。だが、この一帯の風景はあまりにも変わり、ますますわからなくなってしまう。
「何か、目印になるようなものは、ないのかな?」優恵はそう言うと、背伸びをして辺りをキョロキョロと見回した。首の動きにあわせ、尾が動いている。
「そうだな、近くに防災無線のスピーカーがあった」俺は夕暮れ時に流れるドヴォルザークの名曲を耳の奥に聴きながら、当時のことを思い出した。染み入るような紅の中、お世辞にも良いとは言えない音質で奏でられる黒人霊歌。異文化の産物なのに、俺の心の奥底に染み付いている。
「スピーカー? あ、あのラッパかな??」優恵が軽くはねながら、遠くを指差す。目を凝らしてもあまりよく見えないので、俺は久しぶりに眼鏡をかけた。
「あ、あれだ…」俺はそう呟くと、路地裏へと早足で入り込んだ。どうやら、一ブロック先の通りだったらしい。
「あ、待って〜!」優恵はチュッパチャップスを手に握ったまま、トテトテと俺の後をついてくる。
しばらく走ると、そこには懐かしい町並みが広がっていた。さほど広くない路地と、どうやって経営をたてているのかわからないような小さなスーパーマーケット。そして、その横にひっそりとそびえる木造家屋。この家が五月の実家のはずだ。
「見つかったんですか?」俺は優恵のそんな問いに無言でうなずくと、板塀に囲まれた五月の家を指差した。ふとその家の二階を見つめると、瓦に反射した夕日が俺の記憶の残像を映し出す。今から十年以上前、俺はよくこの光景のもとで五月と遊んでいた。
俺と優恵がしばらくぼうっとしていると、すぐ後ろを豆腐屋の自転車が通り過ぎた。独特なメロディをラッパを奏でながら、豆腐屋はかすかな水音をたてつつ、過ぎ去っていく。
「ん…、確かに表札に『三枝』ってあります」優恵は舐め終わったチュッパチャップスの棒をスーパーの前のくず入れに捨てると、五月の家の表札を確認しに行った。俺は両手に滲む汗をジーンズで拭うと、そっとチャイムに手をかけた。
*
俺たち迎えてくれた初老の夫婦。五月は夫婦が年をとってから授かった子であり、ことさら可愛がられていた。久しぶりに俺を見た夫婦はにっこりと微笑み、それと同時に愁いを帯びた複雑な表情をする。
「まあまあ、拓人ちゃん。立派になって…」五月の母が、お茶を俺たちに出しながらそんなことを言う。
「拓人ちゃん…ほへ?」
「それ以上、言うなよ」俺は、ニヤニヤと含み笑いをする優恵を牽制した。その様子を不思議そうに夫婦が見つめる。
「あ、ごめんなさい。わたし、優恵、神無月 優恵と言います」優恵は深々と頭を下げた。帽子を取っているため、特徴的な耳が大きく動くのがわかる。
「はじめまして、神無月さん」五月の母が頭を下げると、父も同じようにする。だが二人とも「この娘は、いったい何のようできたのか」と不思議そうな表情をする。まあ、差別的な視線を向けられているわけではないので、随分と気分的には楽だが。
「あ、この娘は僕の友人で、僕も彼女も五月さんの事で聞きたい事があるらしいので連れてきました」
俺の一言で、夫婦の表情が恐怖と困惑が入り交じるようなものへと変わった。突然の出来事に、優恵はおろおろし始める。
「…、どうかしましたか?」俺は何か嫌な予感を感じつつ訊ねた。だが、夫婦から返事はなく、お互いがお互いの顔を何度も見つめるだけ。
「えっと…」優恵が耳を撫でながら、しどろもどろに話しだす。
「いえ、あの…。神無月さんは、まだ高校生ですよね? その制服から言うと…。なのに、五月の、そんなに昔のことで??」五月の母親の意外な言葉に、俺と優恵は互いを見つめあった。高校生の優恵が五月の話をして、どこがおかしいのだろうか。
「いや、そんなに昔のことじゃなくて、つい数日前のことなんですけども…」優恵は俯きながら呟いた。長めの前髪が額にかかり、おそらく五月の両親からは彼女の表情は見えないだろう。だが、俺は優恵の心情を一瞬で理解した。彼女は、しっかりと隣に座る俺の手を握ってきたのだ。伝わってくるかすかな震え。俺はその震えを止めようと、しっかりと握り返した。
「数日って、そんなことがあるわけない」今まで黙り込んでいた五月の父が、恐ろしいほど冷めきった表情で立ち上がる。優恵は突然の出来事に、尾をふりながら首を傾げた。
「お父さん?」五月の母は夫をたしなめると、そのまま椅子に座らせた。しかし、どうして数日前に五月に会ったということだけで、なぜこんな反応をするのか。もしかしたら、五月は家出をしていて、家族とは会わずに友人と会うためだけに街へ戻ってきたのを怒っているのだろうか。俺がそんなことを考えていると、ふと脇腹をつつかれる感触を覚えた。優恵だ。
「もしかして、五月さん家を出たのかな?」優恵がそっと俺にささやく。どうやら、優恵も俺と同じ考えらしい。
「家出、だったらどんなに良いか…」優恵の声が聞こえたのか、五月の父はそう呟く。そして、低くうなり声をあげながら涙を流し始めた。
「え、ええ?ちょ…」俺は突然の出来事に狼狽えた。家出だったら、どんなに良いか? 俺には五月の父の言葉の意味が理解できない。俺が慌てながら隣を見ると、同じように優恵も慌てふためいている。
「お、お父さん!ほら!」
「ごめんなさいね…。ちょっと、まだ…」五月の母は懸命に夫をなだめるが、それと同時に彼女もショックを受けたようで顔を真っ青にしている。もともと、歳の割には若くて奇麗な人だったが、今では死を待ち望む老婆のように生気のない顔をしていた。
「あ、あのう、マズいこと言っちゃいましたね…。ごめんなさい」わけもわからず項垂れる優恵に、五月の母は複雑な笑みを向ける。なんと言うか、人を避難するような嫌らしさのある微笑みだった。
「いえね、わざわざ来ていただいて、あり得ないことを話されても、こっちとしてはどうしようもないから…」五月の母はそう言ったが、こっちこそ何がなんだかわからない。このまま、引き下がって帰るのも何となく気がかりなので、俺はあえて五月の両親に訊ねてみた。
「あの、五月さんは今どうしてるんです? 先日、久しぶりに会ったのですが、それ以降連絡がなくて…」
俺の問いかけに空気が凍る。いや、空気だけじゃない。五月の両親の呼吸も、いや時間さえも凍った。
「だから、そんなはずはないは、ないんだ…」五月の父が囁く。
「え?」俺はその声が聞き取れずに、違うな、その意味が分からずに無防備に問い返した。心の原質が問いかける疑問、そんな衝動が口から出てしまう。
「だから、そんなはずはないんだよ、如月君…! 五月は、五月は十年ほど前に死んだんだ」五月の父の声に、俺と優恵はどう反応していいかわからずに、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
「…そうなの、だからきっと見間違いなのよ…」今まで気丈にしていた、五月の母は何かが壊れてしまったのか、ただただ嗚咽を漏らすだけだった。
「そんな…」優恵の呟きが、凍った時間をさらに冷えきったものへと変えた。